Day8:shikoku Pilgrimage 四国霊場108番所巡礼乃旅1400km 人は歩くことにより修行となす

Day8:shikoku Pilgrimage 四国霊場108番所巡礼乃旅1400km 人は歩くことにより修行となす

Day8:shikoku Pilgrimage 四国霊場108番所巡礼乃旅1400km 人は歩くことにより修行となす




旅程:第37番岩本寺 〜国道56号 〜第38番金剛福寺
日付:2016年5月25日水曜日
天気 曇り後雨 距離 約120km  累計距離 約562km



四国霊場を走り旅している時に、少し休憩するために遍路道そばに小さな東屋に寄ることにした。
そこには先客の年配お遍路さんが、椅子に座っていた。挨拶を済ませこれまでの四国遍路での苦労や楽しみ、喜びそして発心などいろいろなことを会話することができた。巡礼の旅って、素直に気持ちで人と接することができるから不思議だ。
彼の素直な言葉が、いつまでも心の奥底まで響くのです。
人は歩くことにより修行となす
巡礼は競争ではないから、地図とかガイドブック通りに歩く必要はない。
「自分の心に従って歩くのが一番いいんだよ」って言ふ。
だから、ある時は5キロでやめてしまった日もあれば、ある時は38キロ歩いた日もありました。そうすると、必要な時に必要な人に出会えたりします。距離を稼いでがつがつ行くことよりも、自分の感覚で行くことを大事にしています。他の遍路さんにも、その方が面白いよと伝えています。
 僕の中では“走り旅”は巡礼であり、普通のスポーツと違い瞑想というか修行に近い感じがする。「短時間の日数で四国霊場1400kmの距離を走ってやろう」っていう気持ちで今の走り旅を発心したわけでない。今は眠る友への惜別と慰霊の巡礼旅なのである。いかにエゴみたいなものを外していくか、周りからどう見られるかという意識を外していく心の旅なのです。
歩くことは人生に似ている。一番楽に歩けるのは、自分のペースで歩いている時なんです。誰かと一緒に歩いていると、それぞれのペースが速すぎても遅すぎてもすごく疲れるんですよ。
それは、人生とまったく同じなんじゃないかと思う。
何歳だから結婚して何歳だから子供を生んで、何歳っぽくするという、人に決められたタイムラインに乗るのではなく、人によってペースは違うわけだから、自分のペースに従うことの方が大事なんだと気がつきました。
それから、荷物は歩く上での最大の苦しみであり、軽ければ軽いほど気持ちよく歩けるんですよ。それは普段の生活でも同じで、物理的な荷物も、心の中の余計な荷物――嫉妬だったりプライドだったり、そういうものも軽ければ軽いほど楽しく生きられるんだと気づかされる。
この巡礼記は、印象深い情景や人々との出逢いなど断末的に書いている。
各札所の特色などの案内は、ネットで検索すればいくらでもあるので詳細は記さない。いたって抽象的な思い出の中で僕はこの記事を書いているのだ。夢のようなそして慈愛に満ちた遍路道での風景を白いキャンパスに描くように一瞬の出来事が描かれている。
足摺岬を目指して
午前7時前に
僕は第38番札所岩本寺の門前に立っていた。昨日は夜遅く窪川に到着していて午後5時までの納経時間に間に合わなかったから仕方ない。本来であれば陽の出とともにく立旅していたものの、約3時間ほどのロスタイムは痛い。
岩本寺の納経所にて御朱印を頂くと、僕は急ぎ足摺岬を目指した。
今日は札所巡拝はありません。ただひたすら国道56号線を辿ることになります。途中に旧遍路道が存在するので、昼間は旧道を歩き、夜間は走りやすい国道を行くことになる。
第37番札所岩本寺より足摺岬までの道程は120キロメートル程あり、札所間で一番の長丁場である。
昔の歩き遍路にとっては大変苦しい旅であったといわれている。 ために、岬の果ての山門に辿り着いたときは涙を流して平伏したという。お大師さんに会いたい一念で歩いてきた遍路にとって、こうしていつも待っていて下さるお大師さんを仰ぐとき、その感激はいかほどのものか。 大師信仰はこうして自然に生まれるものにちがいない。
約120キロの距離は、ウルトラマラソンや100マイルレース等で参加経験があるので、24時間程度あれば足摺岬は可能である。
しかし、今のスタイルといえば約10kgのリックを担ぎ、昨日の雨に濡れてさらに重たくなっている。両肩にはその旅の重さをあり、食い込むようにに肩の筋肉を傷めつけてくる。
ゆっくりとしたペースで、金剛杖とともに携えて陽の高い時間帯に足摺岬に辿り着けないだろう。
僕の疲労した体調を考えるとおそらく20 時間前後は予想され、当日の午後8時くらいになるのではないだろうか?
当然ながら岬特有の起伏もあり、食事や休憩もとらなければならないので、所要時間20時間は妥当な時間である。
国道には街灯もなく、ヘッドランプは必須である。夜間走も覚悟して今日一日が土佐の難所でふたつめとなる。むろん最初の難所は室戸岬です。
室戸岬までのガス欠にはほとほと難儀で苦行の道でした。それか学習して食料確保を一番で、公道沿いにあるコンビニやスーパー、商店で必ず立ち寄り食事を頂き食料つまり行動食を購入しなければならない。
四国遍路は物見山の観光でなく、自己を癒やしを希求する修行であることを肝に銘じて、僕は走る遍路しての覚悟です。
天気は曇り空。昼過ぎから外気温度も30℃近くまで上がりかなり暑くなるらしい。地元の方に聞くと今日の天気を教えてくれた。
弱き者達、それは遍路なり
四国霊場で何度も出逢った薄汚れた、髪はボサボサ、靴もボロボロ、悪臭が漂うお遍路さんが気になりだしていた。
外見だけ人を判断してはいきないと、僕の理性と知恵と偏見と差別が心の中に住み、お互いがその限られた領域の中で陣取り合戦をやっている。
彼らはいったいどんな人達なのだろうか?
「職業遍路」とは一時的な遍路ではなく、四国を巡りつづけることを職とした人々のことです。かれらは四国を巡りつづけるに至ったのか、そして、どのようにして生計を立てていたのか。そこには様々な理由で地域や社会からはじきだされた人々が遍路となり、「お接待」と呼ばれる風習によりかろうじて生き延びていた姿が見えてきます。
「お接待」とは遍路に対して支援する昔ながらの風習です。無償で宿を提供にしたり、食べ物などを支援します。険しい道のりだった四国遍路において、お接待は遍路の存続を大きく支えました。現在でも四国に残るお接待は遍路の歴史に大きな影響を与えることになります。なかでも、職業遍路が四国に流入したことはこの接待を抜きには考えられません。
職業遍路で代表的なものが病気によって故郷を出た人々です。中でもよく知られたのが、ハンセン病患者の遍路です。
当時、ハンセン病は遺伝性(※注1)と考えられていたため家族に病人がでると、人に知られる前に遍路に出しました。「職業遍路」とは一時的な遍路ではなく、四国を巡りつづけることを職とした人々のことです。ではなぜ、かれらは四国を巡りつづけるに至ったのか、そして、どのようにして生計を立てていたのか。そこには様々な理由で地域や社会からはじきだされた人々が遍路となり、「お接待」と呼ばれる風習によりかろうじて生き延びていた姿が見えてきます。
(※注1:ハンセン病は遺伝病ではなく、現在、完治する病気です。又、元患者の方から感染もしません。)
 その他にも重病の病人や身体障害者などが遍路となり四国を巡りつづけました。彼らは「病気遍路」や「へんど」などと呼ばれ、時には一般の遍路と差別されることもありました。彼らは一般的な遍路道を避け、遍路屋に泊まることも出来ず、野宿や本堂の軒などで一夜を過ごすなどして、一般の遍路とは離れ四国を巡りつづけました。
故郷を追われて遍路になった人々は札所を一周しても帰る所もなく、結局は接待を当てに死ぬまで四国を歩きつづけなければならなず。こういった人々の中には、まったく巡礼はせずただ接待を当てに四国を巡る者や、賊化して空巣や強盗をはたらく者たちも現れるようになります。このような遍路は「偽遍路」や「乞食遍路」などと呼ばれていた。
病気や障害、貧困のほかに罪や偏見などによって故郷を追われた人々なども遍路となりました。彼らは社会福祉制度が確立される昭和40年代までその数を減らすことはなく、四国遍路は福祉が発達するまでの行き場を失った人々の受け皿ともなりました。結果としてお接待は彼らの生計を支えることにもなっていきました。四国には故郷に帰ることなく、人知れず果てた無縁仏の遍路墓が今も無数に残っています。
四国には結果として接待があったが故にハンセン病患者が四国に流れこんでしまったという悲しい歴史があります(ハンセン病の発病は、らい菌に対する免疫耐性によるものです。らい菌の感染力に関しては、微力であると広く支持されていますが、異論もあり結論づけらません。四国でのハンセン病の発病率と四国遍路との因果関係は科学的に立証されていません)。また、接待によって職業遍路が生まれ、彼らが賊化して住民を脅かす結果にもなりました。それでもなお、接待は現在までつづけられてきました。そんな四国の人々に根づく心情には頭が下がる思いがします。(引用)
  
現代の遍路はその目的や信仰に関わらず、一般の人が多く訪れる巡礼です。これは他の巡礼ではその信仰者が中心であるのに比べて特質なものです。そこには「お接待」に代表される四国の人々に根づく心情が今もをこの地に多くの人々をいざなうのだと僕は確信している。
ご利益
四国霊場108札所を自らの脚と体力だけで約1400kmを野宿して、22日間で最後の札所大窪寺に結願いて、その余韻を楽しむ余裕もなく俗物的な世界に戻ると僕のまわりの人達からいろいろな質問がある。特に多いのがこれです。
よく「ご利益はなにかあるの?」と聞かれること。
僕のその答えは、
何かあるからやるのではなく、自分を見つめたり、自分探しの機会を与えられていると思ってください。一歩前に踏み出さないと目的地には行けない。それが人生を前向きに生きることにつながっていくと僕は思います.
遍路の理由を決して語りたくない人が、遍路道には沢山います。現代では幾ら四国遍路が「手軽」になり一部レジャー化しているとはいえ、何千年もの間多くの日本人が「最後の頼み」としてきた四国遍路です。「気軽に遍路理由を語るべきではないし、ましてや訊くべきではない」という不文律がきちんと生きている。
人は苦しんだ分だけ幸せになる
足摺岬に目指して国道56号をひたすら走りそして歩く。機械的な単純行動に徹していた僕には
結願するまでのタイムを求めていたのかもしれない。徳島は発心の道場と言われるが自分の中にはまだまだ解決しなければならない俗物的な金銭欲や性欲などのドス黒い生き物が心奥で活動していた。とにかく四国霊場を早くそして目的を達成したいという強い欲望がそんな生き物を心の奥底に生息させていたんだ。
『どうしてお遍路に来られたのですか?』僕は、国道56号を歩いている若い遍路さん声をかけた。僕も孤独で、炎天下の舗装された道を歩いていると人恋しくなんるのだ。走る遍路とはとても孤独で一日人と話さないことも少なくない。時には山里離れrた奥深い遍路道を歩いていると、一日まるまる人に逢う機会もないのだ。
気分を紛らすよなラジオなどの電子機器も携帯していないので、その孤独感は例えることができない。そして、今日はどうしても人と会話をしたい気持ちに導かれるよに、先を歩く若い遍路さんに出逢ったのだ。
歳は30歳くらいの若くて歩きもシッカリしていた。彼の並列するようにペースを保ちながら、挨拶から質問を始めた。
するとその方は真剣な顔になり、こう語り始めました。
実は、このお遍路に来る少し前に会社をリストラになったんです。普段の通り出勤したのですが、いきなり上司が私にリストラの宣告をしてきました。その時は目の前が真っ暗になり、頭の中が真っ白になり、何も考えることができなくなってしまいました。
家族や友人、知人が私のことを心配してくれて、色々な励ましの言葉を掛けてくれてましたが、その時は自分に全く余裕がなく何を聞いても素直に受け取ることができず、あろうことかその優しい人達に罵声を浴びせるようになっていました。どんどん心が荒んで人間不信になり「なぜ自分だけが不幸なんだ」と嘆いていました。
 そんな堕落した日々を過ごしていると、知人の一人が、「それだけ悩んでいるのであれば考える時間がいるだろう・・・そうだ、四国遍路に行ってきてはどうだろう。歩くと50日前後かかるから考えを整理できるんじゃないか」と言ってきました。
最初は「なぜ苦労してそんなことしなければならないんだ。これ以上苦しめるつもりか」と言って断っていましたが、その知人の真剣な説得に根負けして、しぶしぶお遍路に行く決心をしました。
 四国に来たのはいいのですが、拝むということを今までしたことがなく、どうしていいのかも分からず、言葉通り見よう見まねで、分からないことは人に聞くのではなく、インターネットで調べながらなんとかやってました。
 何も思わずにただただ体裁を整え歩くだけでしたが、私の顔をジッと見てきたお遍路さんがいました。おそらく私の顔を見て気になったのでしょう。
「こんにちは」から始まり少し雑談をしていました。
すると「どうしてお遍路に来たんですか」と尋ねてきたので、事の顛末を話しました。「どうせ同情してくるんだろう」と思っていたのですが、返ってきた言葉は私の思いとは全く違い、その人は「何を考えているんだ。早く帰りなさい」と言われました。
予期していない言葉を言われてびっくりし、同時に腹が立って「あんたに何が分かるんだ」と言い返しました。その後ケンカ別れをしてはらわたが煮えくりかえるというのはこのことで、言い合いが終わった後でも腹が立ち続け「なんで見ず知らずの人間に対してあれだけひどい事が言えるんだ」と思っていました。
 しかし「帰れと言ってきたんなら意地でも全部歩いてやる」と心の中で思い、歩いていました。
すると、次に声を掛けてきたのは地元の人で、やはり「どうしてお遍路してるの」と聞いてきたので、同じように話をしたら、また同じような言葉が戻ってきました。
そこでも私は腹が立ってケンカばかりしていました。それからもお遍路さんや地元の人々から同じ質問をされましたが、ことごとく同じ反応でした。こちらも同じ気持ちで腹が立ちながら歩いていました。
 しかし、徳島県が終わり高知県に入るぐらいの時に考え方が変わり、いつの間にか「家族でも知り合いでもない人がなぜ自分の事でこれだけ怒ってくるのだろう」と思うようになっていたのです。そしてそれからというもの、自分は何をしているのか、家族や知人は自分に何を伝えたかったのか、他人がどうして真剣に自分の事で怒るのかを考えるようになりました。少しずつ自分を見つめなおすようになっていったのです。
 今は最後の方ですが、今更ながら皆さんが私に言ってきた言葉の意味が分かりました。
それは「自分の事を思い優しくしてくれた人達にまずは謝ってきなさい」だと思うんです。同情ではなく、本当に私の事が心配で言葉を掛けてくれてたのに、罵ってしまった。その時は腹が立ってたので気にも止めていませんでしたが、最初に怒ってくれたお遍路さんは「周るなと言ってないよ。まずは謝ってから心を新たにしてお参りしなさい」とも言ってくれていました。
 お遍路に来る前は「この世は神も仏もなく、自分だけが一番不幸だ」と思っていましたが、ここに来て、人の本当の優しさというものを学ばしていただきました。だから、私はこの四国遍路が終わって高野山まで行ったら、すぐ家に戻り、両親や知人に本心から謝り、この四国遍路を紹介して下さった方にも謝り、感謝をしようと思います。この人がいなかったら今の私はいなかったわけですから。
 私はまだ31歳です。これからの人生まだまだ先は長いし、色々な困難が立ちはだかることでしょう。でも、これだけの人に支えられているんだと思えば何でもできると確信しました。だから、謝った後は就職活動をして、他人のせいにすることなく、一生懸命やれることをやりながら前に進んでいこうと思います。』
 そう言い終わった後、そのお遍路さんは本当に優しいお顔になっていました。
 最初は人間不信にまで陥っていた人が、知人の紹介でお遍路に来ることになり、その中で出会った人達に、厳しい事実を言われた為に、最初は恨みを持っていましたが最後には感謝に変わっています。なぜなら、怒ってくれた人達は「自分は嫌われても構わない。ただ、目の前の人が前を向いて歩いていけるようになればそれでいい。相手と口論になろうが言わなければならない」と思ってくれる人だったのでしょう。誰だって人には嫌われたくないでしょう。怒るのにも力がいります。どうでもよければこのようなことを言うはずがありません。どれだけ優しい心を持った人達だったのかは容易に想像がつきます。
 僕は
このお遍路さんとは連絡先の交換もしなかったのでその後はどうなったかは分かりません。おそらく様々な困難が立ちはだかっていることでしょう。しかし、これだけの素晴らしい良い出会いの中で、「本当の自分」を見つけることができたあのお遍路さんなら、どれだけ厳しい困難も乗り越え、今はどこかで大成していること僕は今も信じている。
人間をは悩むことを恐れるもので極力避けるべきものであるが、実は悩むことで人は成長させてくれる。
人生に悩まそして前向きに進み、愚痴や不平不満も口にすること無く欲を捨て
質素な生き方こそが大きな幸せを生む。心を豊かにすることで人生を有意義にまた幸福を生むのです。
土佐西南大規模公園から中村駅へ
お昼ごろに「道の駅ビオスおおがた」に到着した。朝食は確保しておらず、空腹のままこの道の駅までたどり着く。昼食と朝食を兼ねて道の駅内に食堂があるだろう想定して、まずは道の駅で休息と食事をとることを目論でいた。
空腹に耐えて、何を注文しようかと脳裏に浮かべて喜びの瞬間で店頭のメニューを観て愕然とした。
値段が観光料金で高額なのだ!まずい、あまりにも高額な価格に翻弄しながら、どうしようかと判断が鈍り
悶々とした時間が流れる。
結局、道の駅内の食堂は諦めることにした。
ネットで検索すると、中村駅近くにスーパー銭湯があることを知り、数日お風呂で身体を洗った記憶がない。
我ながら汗臭いのだ。身体も疲労と筋肉痛で悲鳴を上げているし、お風呂に浸かり身体を癒やしたとの強い願望に負けて、遍路道からそれるが中村駅を目指した。
この周辺は土佐西南大規模公園という巨大な公園があって、この道の駅は東端に位置します。周辺にもたくさん公園があるので、寝床には困らなさそうだ。
浮津の広い砂浜! もうあと1ヶ月もすれば海水温も上昇して、海水客であふれる時期がやってくるんですね。いよいよ夏が近づいている。南国土佐の海はその透明度が高く、海の色はマリーブルーの言葉が似合う。
遍路道は松並木が鬱蒼とした中を歩くことになる。木々の隙間から白波が見え、心地よい潮騒が耳に包んでくれる。
波上にはサファーの姿が多くて、この海岸は波乗り達のメッカらしい。走り遍路である僕にもそのサファー達の楽しさを理解できるので、一日でも海と戯れたいと衝撃的な感情が湧いてくるのだ。
道の駅から中村駅まで約10kmほど。夕方までにはたどり着けるだろう。
中村駅いえば四万十川ウルトラマラソンで何度も利用している。
数年ぶりの中村駅は、昔のイメージとは程遠く斬新な設計で駅舎もにニューアルされていた。以前は鄙びた木造構造物で、高知県の西端に位置する寂しいターミナル駅である。
待合室に電源とWifiを完備する素晴らしい駅へと中村駅が変身している。待合室はグッドデザイン賞も受賞しており、居心地のよい空間になっています。唯一空調が効いていなくて、夏場だとめちゃめちゃ暑いのが難点だろう。トイレも最新の温水便座を備え、便器も小便器も真新しくほんとに心地よい。
今夜の野宿は、この駅のベンチに決めようと寝床を確認したが、どうやら駅舎もトイレも終電車までには施錠されらしい。仕方なく駅前ベンチでガンマンすることにした。
そればでは電源とWiFiなどのネット環境は確保される。
夕方近くから小雨が降りだして、深夜にかけて強い雨に変わるらしい。本降りになる前に、ひと風呂を浴びてこようと!と、中村駅から四万十温泉平和の湯まで約3kmの道のりを急いだ!
ビニール傘が強い風に煽られながら、スーパー銭湯での心地よい入浴に夢が膨らむ。
四万十温泉平和の湯の閉店時間が午後11時まで、入浴と食事そして至福の時間である泡を堪能した。後は畳敷きの休憩室で大の字になりながら、畳はいいなとつくづく感動した。
お腹もいっぱい、酒もまわりいっぱい、入浴後のここちよさがいっぱいで
しばしの仮眠は天国です。ここで朝まで迎えたいと痛感して泣きたいくらい。
午後11自前にホタルの光のメロディーが、館内に響き渡ると、
僕は仮眠室で身支度をして自動ドアが開くと、強い雨が降っていた。風も強く、
またこの雨の降る闇夜の中を中村駅まで戻らなければならない。走り遍路の現実は過酷なのだ。
深夜の中村駅は、すでに終電を過ぎて、駅舎やトイレはすべて施錠されて
僕のような遍路さんの野宿を拒否している。
駅舎の横に置かれた長ベンチに寝袋を広げ、強い風に流された雨粒を避けるように傘を頭付近に立ってようやく眠りにつく。
深夜の駅前ロータリーには強い雨音の中で、再三に車のノイズとライトで起こされた。
疲れた身体は、無意識の中で雨音と風の吹く音が子守唄のように眠りを誘う。
 
参照
四国霊場八十八箇所 距離http://hen6.web.fc2.com/plan/plan_tokushima.html
四国八十八箇所*の道
四国別格20霊場の道
資料及び引用
清水に参る道





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