Day7:shikoku Pilgrimage 四国霊場108番所巡礼乃旅1400km 弘法大 師と共に
Day7:shikoku Pilgrimage 四国霊場108番所巡礼乃旅1400km 弘法大師と共に
旅程:高知須崎遍路小屋 〜須崎〜焼坂峠〜そえみみず峠〜七子峠 〜第37番岩本寺
日付:2016年5月24日火曜日
天気 曇り後晴れ
距離 約61km 累計距離 約450km
焼坂峠の女
昨日の雨が乾かぬ石畳の峠越えは危険であり、大きな難所となる。 焼坂峠はそんな峠である。途中、苔むした石畳かつ急坂に何度も続き、登っても登っても滑り、また鎖があるので、鎖の力も借りて登るほどの難所つまり遍路ころがしである。
まさか遍路道に鎖場があるとは思ってもいませんでしたが、止まっていると「ヤブ蚊」が襲ってくるので、休憩もほどほどに峠を登るしかありません。さらに、遍路道の至る所でクモが大きな巣をはり、あちこちで遍路道を遮断し、仕方なく金剛杖をぐるぐる回しながらクモの巣を払いながらの峠越えです。
一般の遍路さんは難所である焼坂峠を避けて、その峠の下に貫通したトンネルを歩く遍路さんが多いようです。結局このような古道遍路道は人が往来しなければますます自然の営みに消されて、最後は廃墟化の運命を辿るのです。折り紙を折り重ねたように、土佐の遍路道には多くの峠があり、その峠を越えることが修行の道である。
難所呼ばれる山深い遍路道に女ひとり。陽も差さないような真っ暗な巡礼の小さき道で、ひとりの女性出会った。後ろから彼女を追い抜くことも簡単で、僕はその脇をすり抜けた。一瞬だが彼女のその表情とは明らかに他の遍路さんとは違っていた。表情は深く思いつめた暗く無機質的な顔があった。
僕はとても悲し気な表情だけでなく、お遍路さんとして過去を引きずるような後ろ姿が印象的であった。声をかけようか悶々としながら僕はしばらく一定の距離を保持しながら、彼女の前を進んだ。
石畳の厳しい坂道が、僕の眼前に積み重なれ鬱蒼とした森の中にその道が消滅していた。滑りやすい苔むした石畳を慎重に脚を置いていく。
しばらくして、背後から突然に耳に響く大きな悲鳴が聞こえた。明らかに女性遍路さんの声だ。
僕は急いで石畳が敷かれた道を下り、彼女のその場所に急いだ。 彼女は痛みを耐えて仰向けに倒れていた。”大丈夫ですか?”と僕は怪我の状態を心配した。
その時、僕は彼女の全体の素顔を見た。先ほど彼女を追いぬくとにき顔の半分しか確認することが出きず、年齢はおそらく50歳代ではないだろうかと勝手に推測していたが、今眼前にいる彼女の素顔は若いのだ。
35歳くらいの肌と声をしていた。 ”怪我はありませんか”と矢継ぎ早に彼女に質問した。そして、立ち上がった彼女に擦り傷や打撲などのとトラブルの有無を確認した。
手の平と脚の膝にうっ血した擦り傷を確認した僕は、ザックからエマージェシンキットを取り出して、ペットボトルの水で傷口の洗浄と消毒液を噴霧しバンドエイドを貼り付けた。
幸い他には異常が無いことを確認して、数キロ先にある人里まで彼女を保護しながら付き添って共に歩いた。
暫くすると二人の遍路は世間話から始まっり、徐々ではあるが打ち解けてきた。そしてなぜ遍路の旅にでられたのかと失礼とは思いながら彼女に質問してみた。彼女はため息をつくように語り始めた。 これまでの人生で何にもいいことが無かたのです。 男にも騙され、子供も処置してしまった。 今から新たな人生に向かって区切りをつけるため、水子供養と人生の目標を見出す為、四国巡礼に出かけました。 そこで会った温かい人々の情、労いの言葉、ご住職のありがたい説法、考えてみると私は何にでも甘えていたんだなぁって気がする。 自分の人生、自分自身を本当に考える時を過ごせたと思う。
私はこの四国巡礼を通じて、自分自身の人生を自分自身で切り開ける自身がついたように思う。一度は自殺まで考えた私だが・・・本当に行って良かった。
彼女の話を聞いて、またひとつの想いを持つ遍路旅をされていることを知る。そして、彼女の言葉がいつまでも脳裏に焼きつき、これからも忘れない深い遍路の旅の思い出となりました。
幾重の峠を越えて、お互いに激励しながらもようや田んぼが現れて小さな集落に辿り着いた。
僕はここでお別れすることにした。
理由は、簡単で遍路さんは同行二人と言われる通りに弘法大師空海さまと旅するのです。当然、本来の遍路さんは単独行動であり、孤独と喜びの表裏一体的な信念があります。
”これかの旅はまたまだ結願までは長い長い巡礼旅です。無事に結願されることを心より希求致します。”と、彼女にお別れの言葉を残して先を急いだ。
そして、その後二度と彼女と出会うこともなく、無事に結願したかいなかも不明です。しかし、彼女に決心した巡礼には自信の持っていえます。
”彼女は間違いなく88番札所大窪寺まで歩き通して結願したはずだ!と。
試される修行の道場
高知県は修行の道場とよく言ったもので、土佐乃國に入ると次の札所がとにかく距離が長くて辛い。
徳島県は発心の道場で、 阿波乃國にある最後の札所第三十三番札所薬王寺から室戸岬の第二十四番札所最御崎寺までは85キロもある。
第三十六番札所青龍寺から、第二十七番札所岩本寺までが60キロ。 さらに、岩本寺から足摺岬の第38番札所金剛福寺までは95キロもあり、札所から札所の距離では、四国霊場八十八箇所中でも最長である。
また、金剛福寺から第三十九番延光寺までは63キロある。
強靭な足腰の強さと忍耐力を要する精神力が試される道場だとつくづく感じた。 須崎にて朝を迎えて 須崎遍路小屋を日の出前に目が覚めた。
昨夜は仙台在住のご年配お遍路さんは、疲れているようで大きなイビキをかきながらまだ起きては来ない。 不思議な夢を思い出していた。
たまに痛みを思い出すときがある。 もうないはずなのに、踵や膝が痛いと感じるときがある。想い出に引き寄せられるように、感覚が蘇ってくる。
風や雨音はあの時と同じで、時間の中へ迷い込んでしまう。それほど強烈に記憶の中に残っている。 バス停を改造したその遍路小屋の夜は、車の音やライトで何度か起こされたのだけれど、同宿の遍路もあれから寝続けていた。
僕も疲れていたのか、何度か起きたとしてもすぐに眠りに落ちて、 睡眠は充分取れた。
そして4時30分には目がさめた。まだ夜明けまでには時間があったので、暗闇の天井を見つめていた。 コンクリートの上にソロ用のテントの中からそのイビが聞こえている。
カエルや鶏などの動物達の息吹を感じながら しかしゆっくりとした時間の中で寛いでいる。
今日は、第37番札所岩本寺までたどり着くことが目標となります。 あすは、徹夜で第38番札所金剛福寺まで一気に駆け抜けて明後日の納経時間である午前7時までに巡拝する目論見である。 さて、第37番札岩本寺までの遍路道には途中にふたつ峠越えをするので、早めに遍路小屋を立つ。
夢の中にある同宿のお遍路さんを起こさないように 荷造りを済ませ、日の出前に国道35号線を走る。 金剛杖に結ばれた鈴の音がまだ暗い田園風景の中で心地よく聞こえる。
しばらく進むと、薄暗い闇の中に異様な光と轟音を発する建物が現れた。 田園地帯に現れた建物はなんだろうか? さらに近づくと それは謎の円盤UFOだ。
未知との遭遇
それは大きく異様に高い突起物が数本立ち先端からは煙が立ち昇り 僕を威嚇てくるのだ。 さらに振動が道路に伝わり足元が揺れ、悪の巣窟ようにその異様な情景が眼前に迫った。 恐る恐る近づくと、大きく口を開いたゲートらしきものから 機械や大型トラックなどの運転音が聞こえてきた。
徐々に日が昇り、まわりの風景が理解することができると、 その円盤らしい建造物は何と大きな工場であることが判明した。 それも何十にも重る漆黒色の建物群が、異様に大きく錯覚させる。
轟々と煙突から吐かれる白煙が夜明けの空に 何本も糸のように雲の中に消えていく。 住友大阪セメント株式会社高知工場と記された標識が 門柱に神々しく取り付けられていた。
しかし、何でこんな田舎で辺鄙なこの田園風景豊かな地に立てられたのだろうか?まわりには郵便局と小さな商店が一軒あるだけでなにも人工物は存在しない。 ただ、田んぼだけが大きな面積を占めているだけである。
朝方なので多分夜勤らしき作業員が帰宅するのであろうか? 煤汚れた作業服とヘルメットの集団が、近くの駐車場に脚を急がせている。
すこし安心して僕はお腹が空いていることに気がついだ。 そういえば昨日も三食を頂いた記憶が無い。
多分途中のコンビニで買った賞味期限が切れたおにぎり2個だけ。
それもリックの中で押しつぶされてペチャンコ状態で、まったくその存在を忘れていた。 疲労困していると、空腹も気がつかないないのだろうか ?
焼坂坂〜添蚯蚓道(そえみみず道)〜七子峠
須崎の街から第37番札所岩本寺までの遍路道には 3ルートある。
標高409mの峠を越える「そえみみず遍路道」と、急な斜度で標高287mまで上る「大坂遍路道」がある。 さらに、国道56号線があるが、これは旧遍路道ではないようなので 対象外。
三大長大遍路道について
四国88か所霊場遍路道 約1400㎞のうち、 最大の難所として三大長大遍路道として知られるひとつが、この添蚯蚓遍路道である。
三大長大遍路道とは、1.阿波の焼山寺遍路道 2.伊予の柏坂遍路道 3.土佐の添蚯蚓遍路道 でる。
四国霊場を巡拝することは、修行の道であり苦行の道でもある。 眼前に存在する難所と呼ばれる遍路道を絶対に避けることだけはできないと決心していたので、この3大長遍路道は歩かなければならないと覚悟を決めていた。
添蚯蚓古道(そえみみず遍路道)について そえみみず遍路道は途中で「高知自動車道」と交差しているのですが、山の高い場所を通過している遍路道を高速道路の下を潜らすために一旦高速道路下まで階段で降り、反対側で急な階段を連続して登るように遍路道を変更していました。
この階段は非常に急で、歩く人もことを考えずに一気に長く作られているので非常に疲れました。昔の遍路道では適当な場所に踊り場を作ったりジグザグに作ったりしていますが、現代の歩道製作者はそんなことは全く考えていません。
疲労困憊のお遍路さんを苛めるかのようなその遍路道は蛇行を繰り返した。新たな「遍路ころがし」の出現である。 中土佐町久礼長沢から四万十町床鍋(七子峠 293m)に至る中世からの幡多路への通り道であった往還(国道)で、約5kmあある。 この遍路道には、「お奈みさん」と土地の人に語り伝えられる遍路墓や、峠付近には明治時代まで茶屋があった庵跡があります。
今は黒竹林となっている庵跡は、その昔、修行中の空海が久礼湾上の月を賞して「海月庵」という庵をむすび、地蔵菩薩と自坐像を刻んだという空海修行伝説の地でもある。 いずれの遍路道を進んでも七子峠で合流するが、大坂遍路道の方が標高が低いだけ楽そうに感じる。
しかし、僕は旧遍路道にこだわり、 弘法大師空海さんが歩いた足跡と辿る強い気持ちがある。 結局、僕のそえみみず遍路道を選択することは同行二人。弘法大師空海様と出会走る遍路道である。
そえみみず遍路道は、四国縦断高速道路建設の影響で旧道が一部消滅していて、山肌を削り地肌が露出した山々を縫うように高騒道路が伸びている。
また見上げるような道路を支える梁柱の大きさや高さな驚きながら本来の旧遍路を離れ迂回するように新たな遍路道が形成されている。延々と続く階段の先が見えないくらいに、空の雲を付けぬけるような錯覚を覚えた。
昨日は雨が降り少し涼しく感じたが、今日は晴天となり蒸し暑い。吹き出す汗を拭いながら心のなかで”ありがたい!ありがたい!これぞ修行の道なのだ!”と呪文のように唱えた。
いまこの苦行を受け入れることで、自らを試されていることに感謝で満ちていた。 コンクリート製の均一的または画一的な長く続く階段に辛苦しながら上り詰めると、いにしえの旧遍路道が現れる。だが、歩き遍路にはあまり利用されていないようで、道は荒れていた。
人が通行した形跡が無いことに気づいたのは、蜘蛛の巣の多さにある。雨に流されたこの遍路道には川のように刳られて不均一的で不整備されて兎に角歩きには不敵な道に難儀する。 迂回するだけあって、本来の旧遍路道をより数キロの距離を余分に歩くことになる。
樹木の根元に半ば埋もれそうな古い丁石があり見逃さないように登る。 じわじわと高度を稼ぎ、峠と思われる場所を過ぎて少し行くと…快適な下りを行き、床鍋の集落にて国道に合流します。
部分的には かなり草が繁り、道中枝を払いながら歩いたが、トンネルや国道などの舗装された安易的で享楽的な似非遍路道を歩くのではなく、本来の弘法大師空海さまが歩いたこの道こそ巡礼道なのである。
何度も言うことですが、修行は苦行であり安易さや便利さを希求してはいけません。
敢えて難所と呼ばれるその道こそが自ら課せられた魂の癒やしの一歩なのだ。多くの歩きお遍路さんが歩かれる事によって、このような古道も維持される。
窪川の夜ひとり
須崎から国道56号線の新道をひたすら走り、夕暮れ近くに岩本寺がある窪川に午後7時過ぎに辿り着いた。鄙びた窪川は夕暮れ時となりつつあった。。
それは暗い部屋を証明をつけるように手探りでいろなな障害物をぶつかりながらまた丁寧に確認するように、岩本寺の山門の明かりがこぼれていた。 既に納経時間も過ぎているので明日の朝一番巡拝するしかないようだ。
忘れていた腹の虫が鳴った。すっかり空腹であることを忘れて一心不乱に岩本寺まで精神的な集中力でここまできたのだ。何事も夢中になると空腹や疲労も、自らに気持ちの後ろに立つようだ。
窪川は、各方面のバスが発着する交通の要所である。これから向かう中村市へ続き土佐くろしお鉄道が単線のレールを滑るようにデーゼル車両が日没の山々の中に吸い込まれていく。 窪川は土讃線の終点であり、そこから先は第三セクターの「とさくろしお鉄道」になる。
窪川の町は海抜200メートルを超える窪川台地にある。何処を歩いても感じるのだが、地方都市で県庁所在地から離れた町は寂れて活気が感じられない。窪川の町も例外ではなかった。山あいにくすんで、色彩を帯びる雰囲気が無い。
いわゆるシャター通り化した商店街や無人らしき廃屋した民家の群れが続いた。できればコンビニがあればいいのだが、窪川の街のなかで迷路のような裏路地や表通りを腹を好かせた遍路さんが徘徊する。
しかし、数十分過ぎてもコンビニは現れないだけでなく、商店らしき建物もあるが閉店なのだろうか? どこもかしこもお店は、すべて扉が閉められていた。
こうなれば仕方ない。地元住民に食事のできる場所を聞くしか無いだろと、人の姿を探す暗くなる街角には人が往来していない。田舎の夜は早くて、街灯らしきものも極端に少なく、汗臭い遍路ひとり呆然としていた。一番元気ななのは腹の虫で、何度も食べたいよ!と鳴いている。 しばらくすると、地元の青年らしき男性の姿を確認した。
”申し訳ありませんが、この近くにコンビニはありますか?”と、藁を掴むように明快な答えこ期待した。
”この街にはありませんよ。数キロ先にコンビニはありますが・・・。”と申し訳ないよいうに首を振る。
”そうですか。では食事できる食堂はありますか?”と、焦る気持ちを抑えながら、青年の答えへ再び期待した。
”地元人ではないので、ちょっとわかりません” 僕は落胆してしまい、夕食は諦めるしか無いのか?と直感した。
思い出していました・・・数時間前に国道56号線を通過したときに一軒のコンビニがあることを。その時は食料が荷物となるので、窪川の街でコンビニはあるだろ。無くても大衆食堂くらいはあるだろうと安易な判断を後悔していた。
窪川には特に夜では、そのような物は存在していなかた。 青年と別れると、再び気がついた。野宿場所を確保してから食事のできるお店を探そうと最適なスペースはないかと探索した。それはすぐに発見した。
某生命保険会社のビルで、出入り口に軒下に格好の場所だ!雨露を凌げる屋根と、L型の壁が風の吹き込みを防いでくれる。グランドシートも張ることもなく、タイルの上にシェラフカバーを広げ、ザックや金剛杖を下ろした。
昼間は暑いが、夜間はこの時期寒い。後で後悔したのだが寝袋を携行すべきだった。 ようなく荷物の重さから開放された僕は、空腹の虫の期待に応えるべく再び徘徊の人となるのです。
そして、闇夜に浮かぶ赤提灯の飲み屋らしきお店を発見する。特にお酒を飲みたいという欲求はなく空腹を満たすことが先決なのです.
赤提灯と居酒屋とんぼ
お店の暖簾の前で、どうするか思案していると再び空腹の虫が鳴いた。そうだ!居酒屋でもつまみなども食べ物もあるはずだ。
暖簾を潜り、扉を開けると、先客がふたりいた。ひとりは中年のサラリーマン風の男性、ひとりは20歳代の若い女。
カウンターの中には40歳代の体格のよい女性がお店を仕切っていた。 カウンターには灰皿が置かれ、捨てられた吸い殻は散乱していた。
”こんばんは。お店で食事できますか?”と、煙草の臭いが強い店内を躊躇することもなく、椅子に座りながら女主人に質問した。
”大丈夫ですよ!でもメニューはひとつだけすが、焼き肉がります!” ”では、焼肉とご飯、味噌汁でお願いします” ようやくありつけた温かい夕食に心が弾む。
そう思ったら喉も乾いていることに気づいて。”ビールをください”と追加注文する。 奥の冷凍庫から瓶ビールがカウンターに置かれた。ギンギンに冷えてるようで、瓶は霜がかかり僕の期待が高鳴る。
さらに、ギンギンに冷えたジョッキが目の前に置かれた。 出された瓶ビールを傾け冷却化されたジョッキーに注がれた泡を一気に流す快感は例えようがない。
汗臭を心配していたが、こうなればどうでもよい心境に変化した。そして、数分間の時間が過ぎると温かい焼肉と、湯気を立てるお味噌汁、キュウリを中心としたお新香を箸をつけた。
孤独な遍路ひとり
夕食を食えると、寝床に戻った。満腹になると睡魔が襲ってきたように、瞼が重い。それともビールに酔ったのだろうか? また、身体も疲れている。疲労は静かに僕の身体を侵食しているのだ。その日の客はボクともうひとりのようだった。
ボクたちは少し離れた席で、ただ黙々と食べた。寝ることが唯一の快楽のように思えた。いくらでも眠れそうに思えたし、そのまま眠りに落ちた。
歩けるだけで幸せ
食えるだけで幸せ
眠れるだけで幸せ
語れる人がいれば幸せ
笑えればもっと幸せ
足が痛くて動けない時は、まだまだ生きているだけでも幸せかもしれない。
そんな言葉を心の中で呟く。それほどの単純な時間だった。何度か目がさめた暗闇の中、ボクは遠く聞こえる海の音を聞くような、そんなことを考えていた。
南無大師遍照金
苦しい時、辛い時、哀しい時があると「南無大師遍照金剛」と唱える。金剛杖や白衣の背中にもその「南無大師遍照金剛」という御宝号が書かれている。
意味は「南無」はインド語のナモ、ナマス、ナマッハを音写つまり発音の音に近い文字で作った当て字です。意味は帰命、帰依する、永遠に、心から信じお従い申しますという信仰の誓いを表します。
「大師」は偉大なる師、という意味で日本では大師号として朝廷から徳の高いお坊さまに贈られました。お大師さまは空海と言う僧名ですが弘法大師という大師号を九二一年朝廷から給わりました。
日本では二十数名の高僧に贈られていますが、「大師は弘法にとられ太閤は秀吉に取られ」と言われるよう大師と言えば弘法大師、お大師さまのこと表すのです。
「遍照金剛」はお大師さまの灌頂名です。大日如来と言う仏さまの別名なのです。奈良の大仏さまは正式にはルシャナ仏ですが、その別名は大日如来さまなのです。お大師さまが中国に渡り真言密教の教えを授かったとき、最後の仕上げとして灌頂と言う儀式を受けられました。(引用:wiki)
そして 南無大師遍照金剛とお唱えになるのは弘法大師お大師さまを拝み、その後ろには大日如来さまが控えられ、また全ての神仏へとつながっているのです。
御宝号の深い意味を噛み締めながら「南無」と信じるこころを開いて、「大師」お大師さまに守られて、「遍照」他人に対しても優しさ思いやりを持って「金剛」自分自身に厳しく、そういう修行の日暮らし信仰を持ち、お大師さまと同行二人の人生の道を、幸せに向かって一歩一歩精進して参りましょう
つづく
参照
四国霊場八十八箇所 距離
http://hen6.web.fc2.com/plan/plan_t...
四国八十八箇所*の道
http://gpscycling.net/tokaido/henro.html
四国別格20霊場の道
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1gTqFJPYCB1zuX2AGf1wm2F3zRXY&hl=en_US
資料及び引用
http://www7b.biglobe.ne.jp/~karasum...
http://fumiki.travel.coocan.jp/http://uo-uo.net/henro/
清水に参る道 http://feel.kiyomizudera.or.jp/
旅程:高知須崎遍路小屋 〜須崎〜焼坂峠〜そえみみず峠〜七子峠 〜第37番岩本寺
日付:2016年5月24日火曜日
天気 曇り後晴れ
距離 約61km 累計距離 約450km
焼坂峠の女
昨日の雨が乾かぬ石畳の峠越えは危険であり、大きな難所となる。 焼坂峠はそんな峠である。途中、苔むした石畳かつ急坂に何度も続き、登っても登っても滑り、また鎖があるので、鎖の力も借りて登るほどの難所つまり遍路ころがしである。
一般の遍路さんは難所である焼坂峠を避けて、その峠の下に貫通したトンネルを歩く遍路さんが多いようです。結局このような古道遍路道は人が往来しなければますます自然の営みに消されて、最後は廃墟化の運命を辿るのです。折り紙を折り重ねたように、土佐の遍路道には多くの峠があり、その峠を越えることが修行の道である。
難所呼ばれる山深い遍路道に女ひとり。陽も差さないような真っ暗な巡礼の小さき道で、ひとりの女性出会った。後ろから彼女を追い抜くことも簡単で、僕はその脇をすり抜けた。一瞬だが彼女のその表情とは明らかに他の遍路さんとは違っていた。表情は深く思いつめた暗く無機質的な顔があった。
僕はとても悲し気な表情だけでなく、お遍路さんとして過去を引きずるような後ろ姿が印象的であった。声をかけようか悶々としながら僕はしばらく一定の距離を保持しながら、彼女の前を進んだ。
石畳の厳しい坂道が、僕の眼前に積み重なれ鬱蒼とした森の中にその道が消滅していた。滑りやすい苔むした石畳を慎重に脚を置いていく。
しばらくして、背後から突然に耳に響く大きな悲鳴が聞こえた。明らかに女性遍路さんの声だ。
僕は急いで石畳が敷かれた道を下り、彼女のその場所に急いだ。 彼女は痛みを耐えて仰向けに倒れていた。”大丈夫ですか?”と僕は怪我の状態を心配した。
その時、僕は彼女の全体の素顔を見た。先ほど彼女を追いぬくとにき顔の半分しか確認することが出きず、年齢はおそらく50歳代ではないだろうかと勝手に推測していたが、今眼前にいる彼女の素顔は若いのだ。
35歳くらいの肌と声をしていた。 ”怪我はありませんか”と矢継ぎ早に彼女に質問した。そして、立ち上がった彼女に擦り傷や打撲などのとトラブルの有無を確認した。
手の平と脚の膝にうっ血した擦り傷を確認した僕は、ザックからエマージェシンキットを取り出して、ペットボトルの水で傷口の洗浄と消毒液を噴霧しバンドエイドを貼り付けた。
幸い他には異常が無いことを確認して、数キロ先にある人里まで彼女を保護しながら付き添って共に歩いた。
暫くすると二人の遍路は世間話から始まっり、徐々ではあるが打ち解けてきた。そしてなぜ遍路の旅にでられたのかと失礼とは思いながら彼女に質問してみた。彼女はため息をつくように語り始めた。 これまでの人生で何にもいいことが無かたのです。 男にも騙され、子供も処置してしまった。 今から新たな人生に向かって区切りをつけるため、水子供養と人生の目標を見出す為、四国巡礼に出かけました。 そこで会った温かい人々の情、労いの言葉、ご住職のありがたい説法、考えてみると私は何にでも甘えていたんだなぁって気がする。 自分の人生、自分自身を本当に考える時を過ごせたと思う。
私はこの四国巡礼を通じて、自分自身の人生を自分自身で切り開ける自身がついたように思う。一度は自殺まで考えた私だが・・・本当に行って良かった。
彼女の話を聞いて、またひとつの想いを持つ遍路旅をされていることを知る。そして、彼女の言葉がいつまでも脳裏に焼きつき、これからも忘れない深い遍路の旅の思い出となりました。
幾重の峠を越えて、お互いに激励しながらもようや田んぼが現れて小さな集落に辿り着いた。
僕はここでお別れすることにした。
理由は、簡単で遍路さんは同行二人と言われる通りに弘法大師空海さまと旅するのです。当然、本来の遍路さんは単独行動であり、孤独と喜びの表裏一体的な信念があります。
”これかの旅はまたまだ結願までは長い長い巡礼旅です。無事に結願されることを心より希求致します。”と、彼女にお別れの言葉を残して先を急いだ。
そして、その後二度と彼女と出会うこともなく、無事に結願したかいなかも不明です。しかし、彼女に決心した巡礼には自信の持っていえます。
”彼女は間違いなく88番札所大窪寺まで歩き通して結願したはずだ!と。
試される修行の道場
高知県は修行の道場とよく言ったもので、土佐乃國に入ると次の札所がとにかく距離が長くて辛い。
徳島県は発心の道場で、 阿波乃國にある最後の札所第三十三番札所薬王寺から室戸岬の第二十四番札所最御崎寺までは85キロもある。
第三十六番札所青龍寺から、第二十七番札所岩本寺までが60キロ。 さらに、岩本寺から足摺岬の第38番札所金剛福寺までは95キロもあり、札所から札所の距離では、四国霊場八十八箇所中でも最長である。
また、金剛福寺から第三十九番延光寺までは63キロある。
強靭な足腰の強さと忍耐力を要する精神力が試される道場だとつくづく感じた。 須崎にて朝を迎えて 須崎遍路小屋を日の出前に目が覚めた。
昨夜は仙台在住のご年配お遍路さんは、疲れているようで大きなイビキをかきながらまだ起きては来ない。 不思議な夢を思い出していた。
たまに痛みを思い出すときがある。 もうないはずなのに、踵や膝が痛いと感じるときがある。想い出に引き寄せられるように、感覚が蘇ってくる。
風や雨音はあの時と同じで、時間の中へ迷い込んでしまう。それほど強烈に記憶の中に残っている。 バス停を改造したその遍路小屋の夜は、車の音やライトで何度か起こされたのだけれど、同宿の遍路もあれから寝続けていた。
僕も疲れていたのか、何度か起きたとしてもすぐに眠りに落ちて、 睡眠は充分取れた。
そして4時30分には目がさめた。まだ夜明けまでには時間があったので、暗闇の天井を見つめていた。 コンクリートの上にソロ用のテントの中からそのイビが聞こえている。
カエルや鶏などの動物達の息吹を感じながら しかしゆっくりとした時間の中で寛いでいる。
今日は、第37番札所岩本寺までたどり着くことが目標となります。 あすは、徹夜で第38番札所金剛福寺まで一気に駆け抜けて明後日の納経時間である午前7時までに巡拝する目論見である。 さて、第37番札岩本寺までの遍路道には途中にふたつ峠越えをするので、早めに遍路小屋を立つ。
夢の中にある同宿のお遍路さんを起こさないように 荷造りを済ませ、日の出前に国道35号線を走る。 金剛杖に結ばれた鈴の音がまだ暗い田園風景の中で心地よく聞こえる。
しばらく進むと、薄暗い闇の中に異様な光と轟音を発する建物が現れた。 田園地帯に現れた建物はなんだろうか? さらに近づくと それは謎の円盤UFOだ。
未知との遭遇
それは大きく異様に高い突起物が数本立ち先端からは煙が立ち昇り 僕を威嚇てくるのだ。 さらに振動が道路に伝わり足元が揺れ、悪の巣窟ようにその異様な情景が眼前に迫った。 恐る恐る近づくと、大きく口を開いたゲートらしきものから 機械や大型トラックなどの運転音が聞こえてきた。
徐々に日が昇り、まわりの風景が理解することができると、 その円盤らしい建造物は何と大きな工場であることが判明した。 それも何十にも重る漆黒色の建物群が、異様に大きく錯覚させる。
轟々と煙突から吐かれる白煙が夜明けの空に 何本も糸のように雲の中に消えていく。 住友大阪セメント株式会社高知工場と記された標識が 門柱に神々しく取り付けられていた。
しかし、何でこんな田舎で辺鄙なこの田園風景豊かな地に立てられたのだろうか?まわりには郵便局と小さな商店が一軒あるだけでなにも人工物は存在しない。 ただ、田んぼだけが大きな面積を占めているだけである。
朝方なので多分夜勤らしき作業員が帰宅するのであろうか? 煤汚れた作業服とヘルメットの集団が、近くの駐車場に脚を急がせている。
すこし安心して僕はお腹が空いていることに気がついだ。 そういえば昨日も三食を頂いた記憶が無い。
多分途中のコンビニで買った賞味期限が切れたおにぎり2個だけ。
それもリックの中で押しつぶされてペチャンコ状態で、まったくその存在を忘れていた。 疲労困していると、空腹も気がつかないないのだろうか ?
焼坂坂〜添蚯蚓道(そえみみず道)〜七子峠
須崎の街から第37番札所岩本寺までの遍路道には 3ルートある。
標高409mの峠を越える「そえみみず遍路道」と、急な斜度で標高287mまで上る「大坂遍路道」がある。 さらに、国道56号線があるが、これは旧遍路道ではないようなので 対象外。
三大長大遍路道について
四国88か所霊場遍路道 約1400㎞のうち、 最大の難所として三大長大遍路道として知られるひとつが、この添蚯蚓遍路道である。
三大長大遍路道とは、1.阿波の焼山寺遍路道 2.伊予の柏坂遍路道 3.土佐の添蚯蚓遍路道 でる。
四国霊場を巡拝することは、修行の道であり苦行の道でもある。 眼前に存在する難所と呼ばれる遍路道を絶対に避けることだけはできないと決心していたので、この3大長遍路道は歩かなければならないと覚悟を決めていた。
添蚯蚓古道(そえみみず遍路道)について そえみみず遍路道は途中で「高知自動車道」と交差しているのですが、山の高い場所を通過している遍路道を高速道路の下を潜らすために一旦高速道路下まで階段で降り、反対側で急な階段を連続して登るように遍路道を変更していました。
この階段は非常に急で、歩く人もことを考えずに一気に長く作られているので非常に疲れました。昔の遍路道では適当な場所に踊り場を作ったりジグザグに作ったりしていますが、現代の歩道製作者はそんなことは全く考えていません。
疲労困憊のお遍路さんを苛めるかのようなその遍路道は蛇行を繰り返した。新たな「遍路ころがし」の出現である。 中土佐町久礼長沢から四万十町床鍋(七子峠 293m)に至る中世からの幡多路への通り道であった往還(国道)で、約5kmあある。 この遍路道には、「お奈みさん」と土地の人に語り伝えられる遍路墓や、峠付近には明治時代まで茶屋があった庵跡があります。
今は黒竹林となっている庵跡は、その昔、修行中の空海が久礼湾上の月を賞して「海月庵」という庵をむすび、地蔵菩薩と自坐像を刻んだという空海修行伝説の地でもある。 いずれの遍路道を進んでも七子峠で合流するが、大坂遍路道の方が標高が低いだけ楽そうに感じる。
しかし、僕は旧遍路道にこだわり、 弘法大師空海さんが歩いた足跡と辿る強い気持ちがある。 結局、僕のそえみみず遍路道を選択することは同行二人。弘法大師空海様と出会走る遍路道である。
そえみみず遍路道は、四国縦断高速道路建設の影響で旧道が一部消滅していて、山肌を削り地肌が露出した山々を縫うように高騒道路が伸びている。
また見上げるような道路を支える梁柱の大きさや高さな驚きながら本来の旧遍路を離れ迂回するように新たな遍路道が形成されている。延々と続く階段の先が見えないくらいに、空の雲を付けぬけるような錯覚を覚えた。
昨日は雨が降り少し涼しく感じたが、今日は晴天となり蒸し暑い。吹き出す汗を拭いながら心のなかで”ありがたい!ありがたい!これぞ修行の道なのだ!”と呪文のように唱えた。
いまこの苦行を受け入れることで、自らを試されていることに感謝で満ちていた。 コンクリート製の均一的または画一的な長く続く階段に辛苦しながら上り詰めると、いにしえの旧遍路道が現れる。だが、歩き遍路にはあまり利用されていないようで、道は荒れていた。
人が通行した形跡が無いことに気づいたのは、蜘蛛の巣の多さにある。雨に流されたこの遍路道には川のように刳られて不均一的で不整備されて兎に角歩きには不敵な道に難儀する。 迂回するだけあって、本来の旧遍路道をより数キロの距離を余分に歩くことになる。
樹木の根元に半ば埋もれそうな古い丁石があり見逃さないように登る。 じわじわと高度を稼ぎ、峠と思われる場所を過ぎて少し行くと…快適な下りを行き、床鍋の集落にて国道に合流します。
部分的には かなり草が繁り、道中枝を払いながら歩いたが、トンネルや国道などの舗装された安易的で享楽的な似非遍路道を歩くのではなく、本来の弘法大師空海さまが歩いたこの道こそ巡礼道なのである。
何度も言うことですが、修行は苦行であり安易さや便利さを希求してはいけません。
敢えて難所と呼ばれるその道こそが自ら課せられた魂の癒やしの一歩なのだ。多くの歩きお遍路さんが歩かれる事によって、このような古道も維持される。
窪川の夜ひとり
須崎から国道56号線の新道をひたすら走り、夕暮れ近くに岩本寺がある窪川に午後7時過ぎに辿り着いた。鄙びた窪川は夕暮れ時となりつつあった。。
それは暗い部屋を証明をつけるように手探りでいろなな障害物をぶつかりながらまた丁寧に確認するように、岩本寺の山門の明かりがこぼれていた。 既に納経時間も過ぎているので明日の朝一番巡拝するしかないようだ。
忘れていた腹の虫が鳴った。すっかり空腹であることを忘れて一心不乱に岩本寺まで精神的な集中力でここまできたのだ。何事も夢中になると空腹や疲労も、自らに気持ちの後ろに立つようだ。
窪川は、各方面のバスが発着する交通の要所である。これから向かう中村市へ続き土佐くろしお鉄道が単線のレールを滑るようにデーゼル車両が日没の山々の中に吸い込まれていく。 窪川は土讃線の終点であり、そこから先は第三セクターの「とさくろしお鉄道」になる。
窪川の町は海抜200メートルを超える窪川台地にある。何処を歩いても感じるのだが、地方都市で県庁所在地から離れた町は寂れて活気が感じられない。窪川の町も例外ではなかった。山あいにくすんで、色彩を帯びる雰囲気が無い。
いわゆるシャター通り化した商店街や無人らしき廃屋した民家の群れが続いた。できればコンビニがあればいいのだが、窪川の街のなかで迷路のような裏路地や表通りを腹を好かせた遍路さんが徘徊する。
しかし、数十分過ぎてもコンビニは現れないだけでなく、商店らしき建物もあるが閉店なのだろうか? どこもかしこもお店は、すべて扉が閉められていた。
こうなれば仕方ない。地元住民に食事のできる場所を聞くしか無いだろと、人の姿を探す暗くなる街角には人が往来していない。田舎の夜は早くて、街灯らしきものも極端に少なく、汗臭い遍路ひとり呆然としていた。一番元気ななのは腹の虫で、何度も食べたいよ!と鳴いている。 しばらくすると、地元の青年らしき男性の姿を確認した。
”申し訳ありませんが、この近くにコンビニはありますか?”と、藁を掴むように明快な答えこ期待した。
”この街にはありませんよ。数キロ先にコンビニはありますが・・・。”と申し訳ないよいうに首を振る。
”そうですか。では食事できる食堂はありますか?”と、焦る気持ちを抑えながら、青年の答えへ再び期待した。
”地元人ではないので、ちょっとわかりません” 僕は落胆してしまい、夕食は諦めるしか無いのか?と直感した。
思い出していました・・・数時間前に国道56号線を通過したときに一軒のコンビニがあることを。その時は食料が荷物となるので、窪川の街でコンビニはあるだろ。無くても大衆食堂くらいはあるだろうと安易な判断を後悔していた。
窪川には特に夜では、そのような物は存在していなかた。 青年と別れると、再び気がついた。野宿場所を確保してから食事のできるお店を探そうと最適なスペースはないかと探索した。それはすぐに発見した。
某生命保険会社のビルで、出入り口に軒下に格好の場所だ!雨露を凌げる屋根と、L型の壁が風の吹き込みを防いでくれる。グランドシートも張ることもなく、タイルの上にシェラフカバーを広げ、ザックや金剛杖を下ろした。
昼間は暑いが、夜間はこの時期寒い。後で後悔したのだが寝袋を携行すべきだった。 ようなく荷物の重さから開放された僕は、空腹の虫の期待に応えるべく再び徘徊の人となるのです。
そして、闇夜に浮かぶ赤提灯の飲み屋らしきお店を発見する。特にお酒を飲みたいという欲求はなく空腹を満たすことが先決なのです.
赤提灯と居酒屋とんぼ
お店の暖簾の前で、どうするか思案していると再び空腹の虫が鳴いた。そうだ!居酒屋でもつまみなども食べ物もあるはずだ。
暖簾を潜り、扉を開けると、先客がふたりいた。ひとりは中年のサラリーマン風の男性、ひとりは20歳代の若い女。
カウンターの中には40歳代の体格のよい女性がお店を仕切っていた。 カウンターには灰皿が置かれ、捨てられた吸い殻は散乱していた。
”こんばんは。お店で食事できますか?”と、煙草の臭いが強い店内を躊躇することもなく、椅子に座りながら女主人に質問した。
”大丈夫ですよ!でもメニューはひとつだけすが、焼き肉がります!” ”では、焼肉とご飯、味噌汁でお願いします” ようやくありつけた温かい夕食に心が弾む。
そう思ったら喉も乾いていることに気づいて。”ビールをください”と追加注文する。 奥の冷凍庫から瓶ビールがカウンターに置かれた。ギンギンに冷えてるようで、瓶は霜がかかり僕の期待が高鳴る。
さらに、ギンギンに冷えたジョッキが目の前に置かれた。 出された瓶ビールを傾け冷却化されたジョッキーに注がれた泡を一気に流す快感は例えようがない。
汗臭を心配していたが、こうなればどうでもよい心境に変化した。そして、数分間の時間が過ぎると温かい焼肉と、湯気を立てるお味噌汁、キュウリを中心としたお新香を箸をつけた。
孤独な遍路ひとり
夕食を食えると、寝床に戻った。満腹になると睡魔が襲ってきたように、瞼が重い。それともビールに酔ったのだろうか? また、身体も疲れている。疲労は静かに僕の身体を侵食しているのだ。その日の客はボクともうひとりのようだった。
ボクたちは少し離れた席で、ただ黙々と食べた。寝ることが唯一の快楽のように思えた。いくらでも眠れそうに思えたし、そのまま眠りに落ちた。
歩けるだけで幸せ
食えるだけで幸せ
眠れるだけで幸せ
語れる人がいれば幸せ
笑えればもっと幸せ
足が痛くて動けない時は、まだまだ生きているだけでも幸せかもしれない。
そんな言葉を心の中で呟く。それほどの単純な時間だった。何度か目がさめた暗闇の中、ボクは遠く聞こえる海の音を聞くような、そんなことを考えていた。
南無大師遍照金
苦しい時、辛い時、哀しい時があると「南無大師遍照金剛」と唱える。金剛杖や白衣の背中にもその「南無大師遍照金剛」という御宝号が書かれている。
意味は「南無」はインド語のナモ、ナマス、ナマッハを音写つまり発音の音に近い文字で作った当て字です。意味は帰命、帰依する、永遠に、心から信じお従い申しますという信仰の誓いを表します。
「大師」は偉大なる師、という意味で日本では大師号として朝廷から徳の高いお坊さまに贈られました。お大師さまは空海と言う僧名ですが弘法大師という大師号を九二一年朝廷から給わりました。
日本では二十数名の高僧に贈られていますが、「大師は弘法にとられ太閤は秀吉に取られ」と言われるよう大師と言えば弘法大師、お大師さまのこと表すのです。
「遍照金剛」はお大師さまの灌頂名です。大日如来と言う仏さまの別名なのです。奈良の大仏さまは正式にはルシャナ仏ですが、その別名は大日如来さまなのです。お大師さまが中国に渡り真言密教の教えを授かったとき、最後の仕上げとして灌頂と言う儀式を受けられました。(引用:wiki)
そして 南無大師遍照金剛とお唱えになるのは弘法大師お大師さまを拝み、その後ろには大日如来さまが控えられ、また全ての神仏へとつながっているのです。
御宝号の深い意味を噛み締めながら「南無」と信じるこころを開いて、「大師」お大師さまに守られて、「遍照」他人に対しても優しさ思いやりを持って「金剛」自分自身に厳しく、そういう修行の日暮らし信仰を持ち、お大師さまと同行二人の人生の道を、幸せに向かって一歩一歩精進して参りましょう
つづく
参照
四国霊場八十八箇所 距離
http://hen6.web.fc2.com/plan/plan_t...
四国八十八箇所*の道
http://gpscycling.net/tokaido/henro.html
四国別格20霊場の道
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1gTqFJPYCB1zuX2AGf1wm2F3zRXY&hl=en_US
資料及び引用
http://www7b.biglobe.ne.jp/~karasum...
http://fumiki.travel.coocan.jp/http://uo-uo.net/henro/
清水に参る道 http://feel.kiyomizudera.or.jp/
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