自分を見つめて

自分を見つめて

PEACE RUN  FOR  LIFE 雨の広島原爆ドーム


自分を見つめるには、魅力的な四国。


ひとりの遍路して、数じれない感動と気づきや優しさを
得ることができた。

それは、利益優先の東京などの大都市では得られることができない、
人間としての優しさや相手を想う気持ち、他人事で済まされない他人愛。



分を愛する如く、他人を愛せよ! 


PEACE RUN FOR LIFE 広島原爆ドーム前



そんな大げさな言葉を使うのは少し恥ずかしいが、それでも四国霊場には宗教的な文化がまだまだ残されている。

人生はお金だ!・・・というゼニゲバ的な生き方

他人より自分を優先を中心・・・利己的な生き方

豪華な家や車、装飾品、衣服など他人に対する見せびらかしで満足感を得る・・・そんな生き方。


人間のものさしが内向きでなく、外向きで上っ面だけを評価する
ことが人生の徳なのだろうか?

一般の人々への潮流が
商業的なライフスタイルが、これまで優先されていたし、これが人生の目標だと信じていた。

日本の狂信的なバルブが弾けて、忘れた時代が数十年続いた。
人件費も固定経費とする経営スタイルが優先され低所得な強制労働的に24時間働かせる。
儲けたお金は社員に還元されることなく、会社保留や経営陣の懐に貯められる。


死ぬまで働け!
サービス残業蔓延!
賃金低額を生む派遣!






労働環境も悪化していた。

本来の人間中心の世界を理想とした理想が脆くも崩壊した時代。
世界のグルーブ化がほんとに人間を豊かにするのだろうか?
富は一部の人間たちに集中して、多くの低所得者を生んでいる。
そして、毎日のように電車に飛び込む自殺者が、日常的に発生している現代です。
日本での自殺数は、交通事故による数値より数倍あり毎年2万に人々が
同じように電車に飛び込んでいる事実に僕は正直に驚愕するしかない。

 
この絶対的な違和感は、いったいなんだろうか??
物欲や性欲、支配欲、独占欲、妬み、嫉妬、復讐、暴言、裏切りなどあらとあらゆる煩悩が現代人を支配している。

優しい言葉をかけてくれる人の何と少なさよ。

大家族制度が崩壊して、個人家庭へと激しく推移していることは理解できす。
最後は、孤独死で最後を迎える高齢者もますます今後も増えていくだろう。
人間の価値をお金で計算する世界がいまそこに存在している。

 
経済行為を加速するため、企業は高額の広告費を投入して
必要でもない物やサービスを購入し、結局は借金漬けに落ちていくのだ。
道に迷い不安な足取りにあるお遍路さんに、自ら声をかけてくる人々が
四国には多いことに気づく。


兎に角、四国はお遍路さんに優しいのだ。
そんな貴重な体験が、あるいみで大きな人としての気付きと試されることを知る切欠になるはずだ。



発心


ここでご紹介する記事は、四国霊場への発心である。
2014長崎原爆資料館にて。


火葬場に立つ少年


僕が初めてこの写真を観たのが,
高校二年の夏でした。
親の離婚などで心暗い日々のなかで、初めて訪れた長崎原爆資料館。

8月9日は、長崎に原爆投下された日。
この日は、長崎原爆資料館の入館料が無料となります。
それまでは、僕は長崎原爆には無関心であった。
そんな夏に訪れた原爆資料館。
館内では、目を覆いたくなるような無惨な写真が数知れません。

黒く焼け焦げた親子。
皮膚がただれ顔や足そして手など累々。
死が当然のごとくの無慈悲な無惨さ。
まだ訪れた機会がなければ、ぜひ訪ねてください。
この少年と背中に背負う妹の写真には、無惨な衝撃もなく静寂が漂っています。

怒りと激痛、絶望といった人間の感情が溢れる長崎原爆資料館でした。
しかし、この少年には強烈なある誓いを感じてなりませんでした。

静かな時間のなかで、少年の視線を我を忘れて涙した高校二年の夏。


背に担いだ妹は眠ってはいません。
すでに死亡しているのです。
死んだ妹を担いで原爆で亡くなった屍を荼毘にするために、焼場まで運んできたのです。

少年はおそらく小学校三年くらい。
どれだけの距離を歩いてこの火葬場まで歩いたのでしょうか?

小さな心のなかを今は知るすべもありませんが、少年は身近な死と対峙しているのです。
妹が完全に焼かれたことを確認するまで数時間、少年の視線は小さな妹に注がれました。

戦争の悲惨さを伝えるだけでなく、人間として”凜”とした純粋な精神さを、僕は少年に感じます。
今年の夏が広島から長崎まで走ろうと決心してから、改めてこの少年の写真を確認した。

少年が担いだ妹の代わりにリックで。

火葬場までの距離を広島から長崎までの約400キロに。

心の痛みに真夏の酷暑に。

僕はそんな気持ちで広島から長崎までの巡礼走り旅にしたかったのです。

少しでもこの少年の気持ちや心情に近づきたい。
そんな強い気持ちで少年と弟が待つ長崎原爆資料館を目指しました。

そして、昨日午前11時2分

僕は、この原爆資料館にある少年と妹に、こころしずかに黙祷することができました。
あの暑い高校二年生活の僕が、いまここに立ってこんな気持ちで佇むことが不思議でした。

ようやく終わった巡礼走り旅ですが、また来年の夏に少年と妹に会いに行こうと思います。

そして、帰り際に背中より幼い声を僕は聞きました。
振り替えると同じような年齢位の少年と妹が、優しく微笑んでいました。

”よく頑張ったね!”

そんな静かな時間が過ぎていました。




目撃者の眼  報道写真家 ジョー・オダネルから

1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の
報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)
(朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋)




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